Una carta personal.

zerosant blog

因縁 - Historia del Clássico 2

エル・クラシコの歴史について、書きたいと思います。

スペインサッカーで長らくライバル関係を繰り広げてきたクラブがあります。私の愛するレアル・マドリードと、そのライバルのバルセロナの2クラブです。最近ではアトレティコ・マドリードを含めて3強と呼ばれるようになりましたが、長きにわたってこの両クラブはリーガ2強とも呼ばれていました。100年以上にも及ぶ両チームの対戦成績は、2022年10月1日の時点でレアル・マドリードが100勝、バルセロナが97勝、引き分けが52回と、大変拮抗しております。

レアル・マドリードの創立は1902年、バルセロナは1899年とどちらも古く、リーグ優勝回数でいえばレアル・マドリードが35回、バルセロナが26回で、当然ながら国内の1位2位となっています。

この2クラブがどういった経緯でライバルとなり、今に至るのか。その歴史や文化について少しだけ書いてみたいと思います。

米西戦争

両クラブが設立された時代についてお話しするために、はずは1898年の米西戦争の話をしたいと思います。

一時は世界最大の植民地帝国となったスペインはやがて凋落の一途を辿り、植民地は次々に独立していきます。残された植民地はキューバやフィリピンなどわずかでした。キューバは世界一の砂糖の生産地であり、貴重な資金源でした。このキューバとの貿易を牛耳っていたのは、カタルーニャ商人たちでした。

そんななか、この豊かなキューバという国を欲しがった新興国アメリカは、スペインとの戦争に持ち込みます。アメリカの新式戦艦の前に捻り潰されたスペインは、キューバだけでなくプエルトリコやフィリピンまで手放すことになりました。

その頃のカスティーリャでは、貴族や地主たちが自らの暮らしを優先するあまり、貧困にあえぐ農民を蔑ろにしていました。また、政治家たちは国全体の利益よりも党派の勢力争いに熱中しており、そもそもカスティーリャ社会は機能不全状態にありました。そのうえキューバを失ったことによる経済的な打撃は計り知れないものです。

しかし、カスティーリャが意気消沈しているなか、カタルーニャキューバ貿易で稼いだお金を工場に投資して、スペインで唯一の産業革命を成し遂げました。スペインの衰退を尻目に、カタルーニャは経済的に栄えはじめたのです。当時のカタルーニャは「スペインの工場」と呼ばれるほど産業が発展し、人口も流入していました。

こうした時代背景のなか、2つのクラブは誕生しました。

FCバルセロナ誕生

バルサ(Barça)」とは、カタルーニャ語でのFCバルセロナの愛称です。

バルサの創設者は、ハンス・ガンパーというスイス人で、カタルーニャ語ジョアン・ガンペールという名前でよく知られています。1899年にバルセロナの町にやってきた彼は、カタルーニャをすっかり気に入ってしまい、会社を辞めて路面電車会社の会計係になりました。ガンペールはこのお気に入りの街にひとつだけたりないものがあることに気づきます。それがサッカーでした。彼はスイスの名門クラブ、FCチューリッヒの設立にも参画したことのあるサッカー好きで、バルセロナの地にサッカーチームがないことを寂しく思っていました。

新聞広告で選手を募集するなどして、なんとかカタルーニャ人と英国人でチームを結成し、バルセロナ在住の英国人グループと初試合を行ったところから、クラブが誕生しました。

このジョアン・ガンペールの名前は、FCバルセロナが毎年8月に行うプレシーズンマッチの「ジョアン・ガンペール杯」に残されています。

レアル・マドリード誕生

1902年、レアル・マドリードの前身となる「マドリードフットボール・クルブ」が誕生します。英国のオックスフォード大学やケンブリッジ大学に留学した学生たちが持ち帰って作ったチームでした。

彼らは留学前に「自由教育学院」という学校で中等教育を受けていました。

スペイン初の共和国が誕生した1868年、共和国政府は一年足らずで瓦解し、王政復古して政治は王政に戻りました。共和国時代には教育の民主化、近代化も始まっていましたが、王政復古によりそれも停滞することになりました。教育は一部の特権階級のためだけのものではなく、一般国民のものになろうとしていた流れが、ここで途絶えてしまったのです。これではスペインはますます世界から取り残されてしまうという危機感を持った教師たちは、1876年、全人格的教育を第一の目的とした「自由教育学院」を設立しました。ここでは学業だけでなく、文学・絵画・音楽・スポーツとさまざまな活動が自由な雰囲気のもとに行われました。この学院に属していた自由主義的な考え方を持った学生たちは、積極的に海外、特に人気だった英国に留学し、マドリードにサッカーが持ち帰りました。こうしてできたのが「マドリードフットボール・クルブ」です。

初代会長はジュアン・パドロスといって、実はこちらもカタルーニャ人でした。

のちにフランコ独裁政権と極右勢力がひいきにしたレアル・マドリードは、最初は自由主義的な学生たちによって作られ、初代会長はカタルーニャ人だったのです。

バルサ黄金期

経済的な力をつけたカタルーニャは、1914年にバルセロナ、ジローナ、タラゴナ、リェイダの4県の合同体としての「カタルーニャ自治体連合」を中央政府に認めてもらいました。継承戦争後の制裁から、独自の政府を回復するための第一歩です。さらに、自治体連合の憲法である「自治憲章」を制定しようと動き出しました。自治憲章が制定されると、自治権立法権・財政権を持つこととなり、ほとんど自治政府と同じ権能を持つことになります。しかし、これにマドリード中央政府が激怒します。このことによって、スペイン国内でも身勝手なカタルーニャというイメージが普及し、カタルーニャ・バッシングが繰り広げられることになりました。

また、貿易面でもカタルーニャとそれ以外の地域とで考え方が衝突してしまいます。カタルーニャは工業地域であるため、保護貿易で国内産業の質を向上させ、先進国と対等な競争力をつけることでスペイン全体を豊かにすることを主張します。ところがその他の地域では、カタルーニャ人の利益のために高く質の悪いものを買わされる、という発想になってしまい、カタルーニャ人は金の亡者というイメージも出来上がりました。

他の地域からのバッシングを受ければ受けるほど、カタルーニャ内部では自治を求める声が高まりました。政党以外にも、非政治団体も次々と自治憲章を支持する声明を発表しました。そこにはバルサの姿もありました。バルサカタルーニャ民族主義を代表する存在となっていきます。

カタルーニャの豊富な資金力を背景に、1915年ごろからバルセロナはいち早く選手のプロ化を進めます。さらに1922年にはホームスタジアムのラス・コルツが完成しました。レアル・マドリー1924年にチャマルティン・スタジアムが完成し、他の地域でもスタジアムの建設計画が進められるなど、スペイン全体でサッカーの人気が上昇してきます。マドリーが「レアル」の称号を国王から賜ったのも、この時期でした。

バルセロナ1920年代に一度目の黄金期を迎え、国王杯を5回制覇、1928年にはじまったリーガの初代王者に輝きました。

プリモ・デ・リベラ独裁政権

カタルーニャの経済発展により、カタルーニャには人口が流入し、工場労働者は増加しました。経済発展につきものなのが、劣悪な労働環境と身分による貧富の差の拡大です。

こうした社会問題は社会主義政党無政府主義政党を生み出し、アナキストによるテロが頻発します。テロが横行するバルセロナは、爆弾都市バルセロナという呼び方をされるようになりました。

資本家とテロリストの争いに対し、中央政府は無力でした。テロを抑える力のない政府に対し、民主主義には頼っていられないと考えた軍人のミゲル・プリモ・デ・リベラがクーデタを決行します。国王アルフォンソ13世は国外に亡命して、ここにプリモ・デ・リベラの独裁政権が成立しました。

カタルーニャブルジョワジーは当初、テロリストに対し無力な当局に愛想を尽かしていたため、リベラのクーデタとその後の政権を支持していました。しかし国内情勢が一応の安定を見せると、リベラ独裁政権ファシズムの色を強め、カタルーニャ自治にも厳しい態度を示します。カタルーニャ自治体連合の廃止やカタルーニャ語の公的な場での使用を禁止したのです。このような強硬な姿勢への反発から、労働者層や資本家の支持を失い、世界恐慌の打撃も相俟ってプリモ・デ・リベラ政権は退陣しました。

スペイン内戦

プリモ・デ・リベラ独裁政権の終焉を迎え、国王アルフォンソ13世が帰国しますが、リベラに独裁を許した国王を国民は支持しませんでした。直後の選挙で共和制支持派が大勝利し、2度目のスペイン共和国が成立します。第二共和制です。

共和国となったスペインでは、「レアル」の称号が意味を成しません。レアル・マドリードは「レアル」の称号を外し、マドリードFCと改称しました。また「国王杯(Copa del Rey)」は「スペイン杯(Copa de España)」と名前を変えます。

カタルーニャでは、伝統的なカタルーニャ自治政府が認められ、より広範な自治を獲得しました。

共和国政府は軍隊の改革や教育改革に勤しみますが、旧体制の中で特権を持って暮らしていた地主や大資本家を蔑ろにするやり方に反発が集まります。世界恐慌の影響を受けた農民や労働者からも反乱を起こされ、行き詰まった共和国政府は辞任、1933年の総選挙で改革反対派の右派勢力が政権を獲得しました。選挙で敗れた左派勢力は危機感を覚え、イデオロギーを超えて団結して「人民戦線」を結成し、1936年の選挙では人民戦線が僅差で勝利を収めます。

こうして右派と左派の実力衝突が繰り返され、社会は騒然とし、不満が鬱積しているところに、内線の足音が聞こえてきました。保守派は軍隊の右派勢力と結び、モロッコでフランシスコ・フランコ将軍がクーデタを決行します。ここからスペイン内戦がはじまります。

フランコ将軍率いる反乱軍には、ファシズム勢力のドイツ、イタリアの協力がありました。バスク地方ゲルニカ空爆もこのとき行われています。一方、イギリスやフランスなどの自由主義国は不干渉政策をとり、共和国側はソ連を除いて孤立無援の状態でした。多くの死者を出した内戦は、1939年1月にバルセロナが陥落し、最後に残ったマドリードも3月に降伏して内戦は終結しました。カタルーニャ全域もフランコ軍に支配されることになりました。

内戦中、レアル・マドリードバルセロナも共和国陣営にありました。バルサは地中海リーグに参加してこれに優勝するなど、活動を継続していましたが、マドリーは共和国側とはいえ前線に近かったため、実質的に活動は休止していました。

マドリディスタの間にも、クラブ結成以来の伝統主義者と共和国政府に忠実な左派勢力が共存しておりました。伝統主義者には裕福な貴族や地主、資本家が多く、フランコの反乱軍に親近感を感じるものも少なからずいました。一方の共和国派には、労働者階級が多くいました。

内戦後

内戦に勝利したフランコは、総統となって独裁を開始しました。フランコは「強い、一つのスペイン」を目指していました。カタルーニャバスクなどの民族主義、民族文化は徹底的に弾圧されていきます。カタルーニャでは、カタルーニャ自治憲章が廃止され、カタルーニャ語カタルーニャの旗の使用も禁止されます。

バルサも潰されるかと思いきや、フランコ政権はスポーツを統一スペインのための民族融和の場にしようとしていました。そのためバルサのような異民族のクラブも存続させる必要があったのですが、カタルーニャ語や旗の使用禁止に伴う変更を矯正しました。エンブレムの一部にあったカタルーニャ旗の2本線に変更させられ、「Futbol Club Barcelona」という表記も純粋なスペイン語「Club de Fútbol Barcelona」に改称させられます。クラブの首脳陣もフランコの息のかかった人物で固められました。

一方のレアル・マドリードは共和国側のチームではありましたが、内戦中にほぼ活動できていなかったことから制裁を免れました。しかし内戦によってボロボロのマドリードでは、選手も少なく資金もなく、スタジアムも荒れ果てているといった状態です。執行部がポケットマネーを出したり、銀行からの借入でなんとか食い繋いでいる状態で、とても好成績を望めるような状態ではありませんでした。

エル・クラシコ

「国王杯(Copa del Rey)」も、フランコ政権下では「総統杯(Copa del Generalísimo)」と名前を変えていました。

1943年の総統杯準決勝、第一戦はバルセロナのホームであるラス・コルツでおこなわれ、バルサが3-0で勝利しました。このときマドリーの選手がラフプレーを連発し、スタジアムでは猛烈なブーイングを浴びせられました。マドリーの選手にブーイングを浴びせることはフランコ政権下ではかなり勇気の必要な行為でした。「スペインを代表するクラブの選手たちにブーイングを浴びせるとは何事だ!」といった内容で新聞でも批判され、バルサ・バッシングのキャンペーンが始まります。

そして第二戦、11-1 という驚愕のスコアでレアル・マドリードが勝利します。通常ならありえないスコアです。この試合には政府による審判への圧力があったという噂が残っており、疑惑の笛、カード、ゴール取り消しなどが多くありました。バルサの選手はやる気を無くし、後半はピッチに立たないことを決めると、マドリードの警察署長がやってきて「ピッチに出ないとお前たちは刑務所行きだぞ」と脅したという証言も残っています。観客も激しい罵倒をおこなうなど、ひどい有様でした。

スペイン・サッカー連盟はこの試合ののち、なぜか両成敗の方針を取り、両クラブに罰金を科しました。この試合によって、レアル・マドリードは体制側のクラブと位置付けられるようになり、バルセロナカタルーニャ民族主義の代表たるチームという構図が出来上がります。

その後

ここからライバル関係が出来上がった両クラブですが、その後もあらゆる事件が両クラブ間で起こります。ディ・ステファノ争奪戦や「ガラス瓶のファイナル」「グルセタ事件」などたくさんありますが、ここではライバル関係の成立のみに焦点を当て、どのようにそれが盛り上がっていったのかということはまた別の機会に紹介できればと思うので、名前の紹介のみにとどめたいと思います。

その後の両クラブの話をします。

レアル・マドリードはというと、体制側のクラブとしてスペインを代表する強いクラブとなることを義務付けられました。そこで会長に就任したサンティアゴ・ベルナベウが辣腕を振るい、スペインどころか欧州で大成功を収めるクラブに成長していきました。

バルセロナは、名選手の獲得やカンプ・ノウの建設などで息を意を強め、五冠を達成するなど第二の黄金時代が訪れます。マドリーとのディ・ステファノ争奪戦に敗れ、黄金時代が終焉し、その間はマドリーの黄金時代を眺めることになりますが、やがてクライフの加入でフットボール界に革命をもたらしたチームとして名を上げることになります。

1975年にフランコが死去し独裁体制は終焉し、スペインは民主化への道を歩みます。マドリーはフランコの呪縛から解放され、体制側のチームである必要がなくなりました。両クラブは健全なライバル関係を歩んでいくことが可能となりました。

しかし、歴史は完全に拭い去ることなどできません。カタルーニャへの弾圧はなくなりましたが、現在もまだ自治問題が完全には解決されていません。ルイス・フィーゴ禁断の移籍の際の豚の頭事件など、何かをきっかけに過去の因縁が噴き上がることもあります。現に2019年には、独立問題に端を発し、エル・クラシコが延期されるなどという事態にも発展しました。

スペイン国外からクラシコを楽しむ一人のサッカーファンとして、両クラブの暗い歴史を知っておくことで、クラシコをまた別の視点で見られるようになるのではないかと思います。

独立 - Historia del Clássico 1

FCバルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウでは、前後半の17分14秒になると独立コールが叫ばれます。なぜその時間に叫ばれているのか、そこに至るまでの歴史について書きたいと思います。

本当はエル・クラシコの歴史について書くつもりでありましたが、カタルーニャというものについて話さないことにはどうしようもないと悟りました。そのためこの稿ではカタルーニャの歴史の話に始終することといたします。

イベリア半島

ヨーロッパの南西、ピレネー山脈より南側に広がる地域はイベリア半島と呼ばれています。ここにはスペインとポルトガルのほか、英領ジブラルタルやフランスの一部、学術的にはアンドラ公国も含まれます。

古代のイベリア半島は、カルタゴとのポエニ戦争に勝利したローマ帝国が支配していました。ローマ帝国ゲルマン民族の侵入により滅亡してのち、この地はゲルマン民族のひとつ、西ゴート族支配下に入りました。西ゴート王国と呼ばれています。

8世紀、西ゴート王国が支配していたこのイベリア半島に、北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイスラム勢力が侵入します。西ゴート王国はそれに屈し、イスラム勢力はピレネー山脈を超えてヨーロッパに進出しようとしましたが、現在のフランスの位置にあったフランク王国がそれを食い止めました。この食い止めた戦いをトゥール・ポワティエ間の戦いといいます。ここからイベリア半島では、イスラム王朝であるウマイヤ朝による支配が始まります。アル・アンダルスと呼ばれるこのウマイヤ朝支配下におけるイベリア半島では、イスラム教の文化が今でも息づいています。

フランク王国はその後、イスラム勢力に対する防波堤としてヒスパニア辺境伯領を設置します。これがのちに「カタルーニャ」と呼ばれるようになります。

それまでイベリア半島にいたキリシタン勢力は、北部の海岸沿いおよび北東部ピレネー山脈山麓まで追いやられてしまいました。北部に追いやられたキリシタン勢力は、やがて国土を回復しようと決起します。この約800年にも及ぶ国土回復運動は「レコンキスタ」(再制服)と呼ばれています。

このレコンキスタの過程で、キリシタン勢力から中世の諸王国が誕生します。レオン王国カスティーリャ王国ナバラ王国アラゴン王国、そしてカタルーニャ公国などです。これらの国々は統廃合を繰り返し、レコンキスタ完了時にイベリア半島に残っていたのは、カスティーリャ王国ナバラ王国アラゴンカタルーニャ連合王国ポルトガル王国でした。

カタルーニャの栄光

フランク王国が設置したヒスパニア辺境伯領から、カタルーニャは独立の歩みを進めていきます。バルセロナ伯ギフレー1世は、フランク王の意志とは無関係に後継者を決定し、その息子のボレイ2 世の時代にフランク王国からの独立を果たします。このバルセロナ伯国(カタルーニャ公国)がのちにアラゴン王国と合併し、アラゴンカタルーニャ連合王国となりました。

時は流れて「征服王」ジャウマ1世(ハイメ1世)の時代に、アラゴンカタルーニャ連合王国は栄光の時代を迎えます。

ジャウマ1世はマジョルカ島イスラム教徒を退けて地中海への道を確保し、続いて南方のバレンシア地方の征服を行い、他の地域に先駆けて、ひとまずのレコンキスタを完了しました。アラゴンカタルーニャ連合王国の領土のうち、カタルーニャが再征服したこの辺りの地域はカタルーニャ語圏となりました。FCバルセロナだけでなく、現在のバレンシア州バレアレス諸島州に本拠地を置く、バレンシアCFビジャレアルCFジローナFCなどは、エンブレムにカタルーニャ国旗(黄色地に赤4本線)があしらわれています。

地中海への道を確保したアラゴンカタルーニャ連合王国は、バルセロナを拠点に地中海方面に領土を拡大します。フランスからシチリア島を奪い、ジェノアと争ってサルデーニャ島を領有し、「アルモガバルス」というカタルーニャの傭兵団によってギリシャアテネ公国までも支配領域に含まれることになりました。

スペイン統一、カタルーニャの衰退

こうして一大地中海帝国に発展していったアラゴンカタルーニャ連合王国ですが、バルセロナ伯家が断絶したことにより停滞、そして凋落の道を辿ることになります。新たにカスティーリャからファラン1世(フェルナンド1世)を迎え、トラスタマラ朝の時代に突入し、その子アルフォンス5世の時代に王とカタルーニャ議会が対立、内戦に発展します。その弟のジュアン2世(フアン2世)が即位した頃にはすでに大国の面影はありませんでした。

ジュアン2世の息子のファラン2世(フェルナンド2世)は、カスティーリャレオン王国の女王イサベルと結婚し、アラゴン王国カスティーリャレオン王国の同君連合が形成されました。統一スペイン王国の誕生です。カトリック両王と呼ばれたこの二人によって、イベリア半島最後のイスラム勢力であるグラナダ王国は陥落、レコンキスタが完了しました。

同年、コロンブスが新大陸に到達し、スペインの大航海時代が幕を開けます。しかし、中南米征服はカスティーリャの主導で行われた事業であり、またカタルーニャはそこに関与するだけの国力を持っていませんでした。そのためカタルーニャは新大陸経営の利益を享受することはできなかったのです。

イサベルとファラン2世の孫、カルロス1世が後継者となり、スペイン・ハプスブルク朝の統治時代が始まります。統一スペイン王国の王も統一され、カタルーニャスペイン王国内の一地方に成り下がりました。しかも時代はカタルーニャが栄光を謳歌した地中海から、新大陸へのルートである大西洋へと移り変りました。地中海の覇者カタルーニャは、やがて衰退していきました。

スペインの没落と継承戦争

スペイン王国の黄金時代は長くは続かず、無敵艦隊の敗北をきっかけに凋落していくことになりました。国力を落としたスペインは、カトリック国として三十年戦争にも介入します。

そんななか起こったのが、収穫人戦争という反乱でした。

三十年戦争でフランスと戦っていたスペイン王国は、軍をカタルーニャに駐留させていました。この軍というのはカスティーリャ軍と呼んでも差し支えないと思いますが、この軍がカタルーニャでなぜか乱暴狼藉をはたらきます。加えてスペインの宰相オリバーレス伯爵は、対仏戦争の戦費調達のため、カタルーニャの資源を搾取し続けていました。これに耐えかねたカタルーニャ農民は、収穫に用いる鎌を武器に掲げて反乱を起こしました。これを収穫人戦争といいます。この戦争で生まれた歌詞をもとにした「収穫人たち」という歌が、現在のカタルーニャの国歌として制定されています。

収穫人戦争には、スペインの敵であるフランスが介入します。フランスは農民軍を支援し、反乱軍は軍事的には勝利を挙げます。ところがカタルーニャ農民の支援者であったはずのフランスは、ピレネー条約により結果的にピレネー以北のカタルーニャ地方を領有することになり、カタルーニャとしては不信感の募る結末となりました。

スペイン継承戦争

やがて17世紀後半、スペイン王カルロス2世は後継を残さぬまま死去し、それまでのスペイン・ハプスブルク家は断絶します。後継者に指名されたのは、フランスの太陽王ルイ14世の孫であり、カルロス2世の異母姉マリー・テレーズの孫でもあるフィリップ(フェリペ5世)でした。しかしこれにまったをかけたのが、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世です。強大なフランスがさらに力をつけるのを恐れ、息子のカールを後継者として擁立します。この動きにフランスの膨張を抑えたいイギリスやオランダも加わり、スペイン継承戦争が始まります。この戦争でフランス・ブルボン家を支持したのはフランスのほか、スペインの政治の中心であるカスティーリャ、およびナバラバスクでした。オーストリアハプスブルク家を支持したのはオーストリアハプスブルク帝国のほか、神聖ローマ帝国、イギリス、オランダ、スペイン国内ではカタルーニャアラゴンバレンシアなどでした。

戦争が展開されていくなか、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世が急死し、跡を継いだヨーゼフ1世も崩御したため、カールは神聖ローマ帝国の皇帝に即位しました。この状態でカールがスペイン王位を継承すると、ハプスブルク家の大帝国が実現することになるため、ここにきてイギリスやオランダが継承戦争から手を引いてしまいます。

残されたカタルーニャは孤立無援となりました。ブルボン家を推す勢力との戦いを単独で行うことになってしまい、やがて1714年9月11日にバルセロナは陥落。ブルボン家スペイン王となりました。

17分14秒

継承戦争に勝利したブルボン朝スペイン政府は、カタルーニャに対する厳しい制裁を行いました。州政府や市議会は廃止され、カタルーニャの独自法や特権も廃止して自治権を取り上げていきました。またカタルーニャ語の禁止、大学の廃止など、徹底した制裁を行っていきます。

継承戦争でバルセロナが陥落したのは1714年9月11日でした。この出来事から、9月11日はカタルーニャ国民の日と定められています。また1714年という数字を忘れないという想いから、バルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウでゲームが行われるとき、17分14秒に「In, Inde, Independència!」(独立!)というチャントが叫ばれています。

Podcastを続けている話

半年ほど前に思いつきでスタートしたPodcastが、今も続いています。

白熱の21-22シーズンも終盤に差し掛かったころ、その熱をエネルギーとしてThe Retreat Time という音声サッカー番組を立ち上げました。

「リトリート」とは、最近では「日常生活の煩わしさから離れてリラックスする方法」のような意味で用いられ、リゾートホテルが「リトリートプラン」と称する宿泊プランを設けているなど、忙しい現代人の現実逃避やリラクゼーションといった意味で世間に受け入れられているようです。

我々フットボールファンにとってのリトリートは、守備戦術の名前としてお馴染みです。リトリートという言葉には退却・後退といった意味があり、転じてリトリート戦術とは自陣深くまで引いて守る戦術を意味します。

番組の方針として、そんなに攻めたことをいうわけでもないし、世間の有識者のような細かい分析を発表できるわけでもない、ただただ大好きなクラブや試合についてのゆるい雑談をしてみようではないか、という意味を込めて、The Retreat Time という番組名をつけることになりました。

昨シーズン終盤に、居酒屋での雑談の勢いで立ち上がった本番組ですが、意外にもここまで半年、#19まで続けてこられています。このままどこまでつづけてゆけるか検討もつきませんが、今の所は苦もなくやれており、サッカーについて語る時間は相変わらずたまらなく楽しいものであります。

本日公開した#19では、今夏の移籍市場で非常な賑わいを見せてくれたFCバルセロナについて話しています。内容は先日公開した記事をベースにしておりますので、お暇な時間に是非ともお聴きいただきたく思います。

anchor.fm

zerosant.hatenablog.com

沖縄そば

ふるさと納税の返礼品でもらった沖縄そばを食べています。

生麺の沖縄そばセットは賞味期限が5日程度であり、5セット入りを購入してしまったため、一人暮らしの私は5日間欠かさず沖縄そばを食べる必要があるようです。いくら美味しいものでも毎日食べると飽きてしまいますし、せっかくの返礼品ならばもう少し味わって食べる機会を増やしたかったという思いもありますが、こればかりは仕方ありません。

沖縄そばといえば、今季の朝ドラ「ちむどんどん」で、今まさに看板メニューの沖縄そばを開発し終えたところです。この半年、毎朝15分の食欲増進ドラマを欠かさず観てきた私の心のうちでは、沖縄そばを食べたい欲がどうしようもなく高まっているところでした。

沖縄そばの麺は蕎麦粉を用いず小麦粉だけで作られています。ダシは豚や昆布・かつおのだしが使われ、具材に皮付き豚を煮込んだ三枚肉が乗っているのが特徴的です。「ちむどんどん」で登場する沖縄そばには、ヒロインの兄が勤務する養豚場から出荷される皮付き豚が使用されています。作中で皮付き豚を仕入れる目処がたったことによって看板メニューの沖縄そばが完成したように、豚肉は沖縄そばの欠かせないピースであるといえそうです。

私が購入した沖縄そばには、三枚肉の他に本ソーキ、トロトロ軟骨ソーキ、かまぼこがセットでついていました。そこに自ら用意した紅生姜とネギを加えていただくのですが、ダシは最後まで飲み干したくなるほど風味よく、麺の食感もたまらない、まさにこの半年間求めていた沖縄そばの姿がそこにありました。

見た目や味・食感は、ラーメンとも違いますが、うどんやそばのそれとも異なります。本土のいずれの麺類とも近からず遠からず、独特な存在感を放っています。

日本は大陸から海を隔てた島国であり、大陸文化とは趣を異にする独特な文化を長年維持してきました。それゆえにガラパゴス的な発展を遂げる分野もあり、世界に対する日本の独自性であると誇ることができるものもあります。本土でいかにラーメンが流行しようとも、その影響を受けずに沖縄県民の間に根付いた沖縄そばも、そうしたガラパゴス魂が生み出した郷土料理なのではないかと思います。

13日の火曜日 - Martes y 13

今日は9月13日の火曜日です。

英語圏やドイツ、フランスなどでは、「13日の金曜日」は不吉な日とされています。イエス・キリスト磔刑にされたのが13日の金曜日であり、クリスチャンにとって忌むべき日であるという説1があるそうですが、忌み数の13と関係があるとの説2もあり、確固たる起源は定かではありません。

スペインでは、13 日の金曜日ではなく、13日の火曜日が不吉な日だとされています。13を不吉な数字とするところは英語圏と共通しておりますが、金曜日ではなく火曜日が災いをもたらす曜日であるといわれています。

破壊や死をイメージさせるローマの軍神マルテ(Marte)と火曜日(martes)が結びついたものであるという説もあれば、コンスタンティノープルが陥落したのが1453年の火曜日であり、キリスト教にとっての大打撃を受けた日であるためだという説もあります。英語圏における金曜日の例とおなじく、確かな起源はありません。

火曜日が縁起の悪い曜日だとされていることから、次のような諺をも生み出しています。

En martes, ni te cases ni te embarques.(火曜日には結婚も船出もするな)

火曜日はおとなしくして災禍に遭わないようにしろ、とにかく火曜日を避けろ、という意味で使われるそうです。

日本にもユニークな迷信が残されていますが、世界にも歴史や文化に応じたさまざまな迷信があるようです。こうした文化の側面をのぞき見ることも、言語を学ぶおもしろさのひとつであると感じます。

読書感想文の話

学生のころより、読書感想文を苦手としておりました。

小学生の頃の夏休みの課題などは、本の内容が子供向けのものでしたので、読むほうのハードルはそれなりに低かったと記憶しています。しかしいざ感想を書けといわれると、原稿用紙4枚程度の量でもたいへん気が重くなったものです。

中学・高校へとあがるにつれて、読むべき本の難易度や求められる感想文の質も、当然ながら高まっていきました。誰かにおすすめの本を訊ねてそれを読んでみたり、誰がどう読んでも感想が一通りにしかならないような本を選んで決めうちの1600字を書いたりと、なんとか読書感想文を楽にやり過ごせないかとばかり考えていました。

大人になった今でさえ、本を読んだ感想を書けといわれると困ってしまいます。感想がないわけではないのですが、世にあふれる高度な感想文ほどの鋭い考察や深いコメントを残すことはできませんし、感想を言語化する能力にも乏しいのが現実です。書評サイトやレビューサイトのコメントで、作者よりもいい文章を書いてやろう、というようなモチベーションでも持っていそうな美文家の読者がいるのをよく見かけますが、読書感想文に悩み続けた私にとっては、彼らの姿は眩しすぎるものです。

しかしある程度の冊数の本を読むようになると、読んだそばから内容についての記憶が薄れていくのが、少しばかり寂しいと思うことが増えてきました。そのため、なにかしらの感想を残しておきたいという気持ちはあります。ただ、それを追い求めるあまり、読書のハードルをあげてしまうことを避けたいと思っております。昔よりも本を読むことへの抵抗がなくなってきたとはいえ、読む速度が遅いのは改善されておりません。そのうえにアウトプットなどを自らに課すると、本を読むのが億劫になってくるのです。

最近は、読んだ感想をTwitterで呟いてみたりしていたのですが、これはアウトプットのハードルとしても十分に低く、本を読むのに構える必要もなく、私にとってはちょうどいい具合のものでした。またもっと便利なもので、読書メーターというものを使っております。

bookmeter.com

Twitterよりは少し多めの情報を感想として残すことができ、さらには読んだ本や積読本なども管理できる便利なサービスです。今はこのサービスに読みたい本や読んだ本を登録して、記録に残しておく程度の楽しみかたが一番長く続けられそうな形であろうと思っています。

書店

久々に本屋に行きました。

最近は電子版の本を買うことがほとんどで、紙の本を買うとしてもネットで買ってしまいます。本屋に立ち寄ったのは、ほんの気まぐれです。特になにかを買おうという目的もなく、ほしい本の目星もつけていないまま、ただなんとなく散歩のついでに立ち寄りました。

近所の小さな本屋は、入り口付近に新刊の歴史新書やビジネス新書・自己啓発本のコーナー、その裏にまとまったビジネス本コーナーと旅行本コーナーがあり、この店の中でいえば一等地ともいえる地帯にこれらジャンル配置をしているあたり、想定する客層は年配の方なのだろうか、と想像するなどしておりました。他の本屋をそういった視点で眺めたことがないので、それはまた別の機会に確かめてみたいと思います。

立ち寄ったその本屋で、私はすべてのコーナーをぶらぶらと見回しながら、タイトルだけをみて少し内容の気になるものがあれば手に取り、わずかに目次を確認してパラパラと内容を確認しては元あった場所に戻す、という行動を繰り返しておりました。

驚いたことに、自分が普段読んでいる類の本を手に取ることは少なく、関心を持つことが少ないジャンルのものに手を伸ばすことが多くありました。たまに本屋に来てみると、ネットで本を漁っていたのでは興味を持つことすらなかったような本が、無性に気になってくるものでしょうか。それでも買って読んでみようというまでには至りませんでしたが、アナログな書店ならではの発見というものがあるように思います。

本の背表紙をみていると、中身を読まなくてもそれだけでなにやら知的な刺激を受けているように感じます。背表紙に書かれたタイトルと著者名などの情報から、脳がひとりでにすべての記憶を総動員して、なにか別の思考を展開しはじめてしまうようです。

自宅でもこの体験を得たいものです。保管する本にはブックカバーをかけず、すでに読んだ本も積読本もすべて、目に見える位置に並べておくようにしておきたいと思います。