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因縁 - Historia del Clássico 2

エル・クラシコの歴史について、書きたいと思います。

スペインサッカーで長らくライバル関係を繰り広げてきたクラブがあります。私の愛するレアル・マドリードと、そのライバルのバルセロナの2クラブです。最近ではアトレティコ・マドリードを含めて3強と呼ばれるようになりましたが、長きにわたってこの両クラブはリーガ2強とも呼ばれていました。100年以上にも及ぶ両チームの対戦成績は、2022年10月1日の時点でレアル・マドリードが100勝、バルセロナが97勝、引き分けが52回と、大変拮抗しております。

レアル・マドリードの創立は1902年、バルセロナは1899年とどちらも古く、リーグ優勝回数でいえばレアル・マドリードが35回、バルセロナが26回で、当然ながら国内の1位2位となっています。

この2クラブがどういった経緯でライバルとなり、今に至るのか。その歴史や文化について少しだけ書いてみたいと思います。

米西戦争

両クラブが設立された時代についてお話しするために、はずは1898年の米西戦争の話をしたいと思います。

一時は世界最大の植民地帝国となったスペインはやがて凋落の一途を辿り、植民地は次々に独立していきます。残された植民地はキューバやフィリピンなどわずかでした。キューバは世界一の砂糖の生産地であり、貴重な資金源でした。このキューバとの貿易を牛耳っていたのは、カタルーニャ商人たちでした。

そんななか、この豊かなキューバという国を欲しがった新興国アメリカは、スペインとの戦争に持ち込みます。アメリカの新式戦艦の前に捻り潰されたスペインは、キューバだけでなくプエルトリコやフィリピンまで手放すことになりました。

その頃のカスティーリャでは、貴族や地主たちが自らの暮らしを優先するあまり、貧困にあえぐ農民を蔑ろにしていました。また、政治家たちは国全体の利益よりも党派の勢力争いに熱中しており、そもそもカスティーリャ社会は機能不全状態にありました。そのうえキューバを失ったことによる経済的な打撃は計り知れないものです。

しかし、カスティーリャが意気消沈しているなか、カタルーニャキューバ貿易で稼いだお金を工場に投資して、スペインで唯一の産業革命を成し遂げました。スペインの衰退を尻目に、カタルーニャは経済的に栄えはじめたのです。当時のカタルーニャは「スペインの工場」と呼ばれるほど産業が発展し、人口も流入していました。

こうした時代背景のなか、2つのクラブは誕生しました。

FCバルセロナ誕生

バルサ(Barça)」とは、カタルーニャ語でのFCバルセロナの愛称です。

バルサの創設者は、ハンス・ガンパーというスイス人で、カタルーニャ語ジョアン・ガンペールという名前でよく知られています。1899年にバルセロナの町にやってきた彼は、カタルーニャをすっかり気に入ってしまい、会社を辞めて路面電車会社の会計係になりました。ガンペールはこのお気に入りの街にひとつだけたりないものがあることに気づきます。それがサッカーでした。彼はスイスの名門クラブ、FCチューリッヒの設立にも参画したことのあるサッカー好きで、バルセロナの地にサッカーチームがないことを寂しく思っていました。

新聞広告で選手を募集するなどして、なんとかカタルーニャ人と英国人でチームを結成し、バルセロナ在住の英国人グループと初試合を行ったところから、クラブが誕生しました。

このジョアン・ガンペールの名前は、FCバルセロナが毎年8月に行うプレシーズンマッチの「ジョアン・ガンペール杯」に残されています。

レアル・マドリード誕生

1902年、レアル・マドリードの前身となる「マドリードフットボール・クルブ」が誕生します。英国のオックスフォード大学やケンブリッジ大学に留学した学生たちが持ち帰って作ったチームでした。

彼らは留学前に「自由教育学院」という学校で中等教育を受けていました。

スペイン初の共和国が誕生した1868年、共和国政府は一年足らずで瓦解し、王政復古して政治は王政に戻りました。共和国時代には教育の民主化、近代化も始まっていましたが、王政復古によりそれも停滞することになりました。教育は一部の特権階級のためだけのものではなく、一般国民のものになろうとしていた流れが、ここで途絶えてしまったのです。これではスペインはますます世界から取り残されてしまうという危機感を持った教師たちは、1876年、全人格的教育を第一の目的とした「自由教育学院」を設立しました。ここでは学業だけでなく、文学・絵画・音楽・スポーツとさまざまな活動が自由な雰囲気のもとに行われました。この学院に属していた自由主義的な考え方を持った学生たちは、積極的に海外、特に人気だった英国に留学し、マドリードにサッカーが持ち帰りました。こうしてできたのが「マドリードフットボール・クルブ」です。

初代会長はジュアン・パドロスといって、実はこちらもカタルーニャ人でした。

のちにフランコ独裁政権と極右勢力がひいきにしたレアル・マドリードは、最初は自由主義的な学生たちによって作られ、初代会長はカタルーニャ人だったのです。

バルサ黄金期

経済的な力をつけたカタルーニャは、1914年にバルセロナ、ジローナ、タラゴナ、リェイダの4県の合同体としての「カタルーニャ自治体連合」を中央政府に認めてもらいました。継承戦争後の制裁から、独自の政府を回復するための第一歩です。さらに、自治体連合の憲法である「自治憲章」を制定しようと動き出しました。自治憲章が制定されると、自治権立法権・財政権を持つこととなり、ほとんど自治政府と同じ権能を持つことになります。しかし、これにマドリード中央政府が激怒します。このことによって、スペイン国内でも身勝手なカタルーニャというイメージが普及し、カタルーニャ・バッシングが繰り広げられることになりました。

また、貿易面でもカタルーニャとそれ以外の地域とで考え方が衝突してしまいます。カタルーニャは工業地域であるため、保護貿易で国内産業の質を向上させ、先進国と対等な競争力をつけることでスペイン全体を豊かにすることを主張します。ところがその他の地域では、カタルーニャ人の利益のために高く質の悪いものを買わされる、という発想になってしまい、カタルーニャ人は金の亡者というイメージも出来上がりました。

他の地域からのバッシングを受ければ受けるほど、カタルーニャ内部では自治を求める声が高まりました。政党以外にも、非政治団体も次々と自治憲章を支持する声明を発表しました。そこにはバルサの姿もありました。バルサカタルーニャ民族主義を代表する存在となっていきます。

カタルーニャの豊富な資金力を背景に、1915年ごろからバルセロナはいち早く選手のプロ化を進めます。さらに1922年にはホームスタジアムのラス・コルツが完成しました。レアル・マドリー1924年にチャマルティン・スタジアムが完成し、他の地域でもスタジアムの建設計画が進められるなど、スペイン全体でサッカーの人気が上昇してきます。マドリーが「レアル」の称号を国王から賜ったのも、この時期でした。

バルセロナ1920年代に一度目の黄金期を迎え、国王杯を5回制覇、1928年にはじまったリーガの初代王者に輝きました。

プリモ・デ・リベラ独裁政権

カタルーニャの経済発展により、カタルーニャには人口が流入し、工場労働者は増加しました。経済発展につきものなのが、劣悪な労働環境と身分による貧富の差の拡大です。

こうした社会問題は社会主義政党無政府主義政党を生み出し、アナキストによるテロが頻発します。テロが横行するバルセロナは、爆弾都市バルセロナという呼び方をされるようになりました。

資本家とテロリストの争いに対し、中央政府は無力でした。テロを抑える力のない政府に対し、民主主義には頼っていられないと考えた軍人のミゲル・プリモ・デ・リベラがクーデタを決行します。国王アルフォンソ13世は国外に亡命して、ここにプリモ・デ・リベラの独裁政権が成立しました。

カタルーニャブルジョワジーは当初、テロリストに対し無力な当局に愛想を尽かしていたため、リベラのクーデタとその後の政権を支持していました。しかし国内情勢が一応の安定を見せると、リベラ独裁政権ファシズムの色を強め、カタルーニャ自治にも厳しい態度を示します。カタルーニャ自治体連合の廃止やカタルーニャ語の公的な場での使用を禁止したのです。このような強硬な姿勢への反発から、労働者層や資本家の支持を失い、世界恐慌の打撃も相俟ってプリモ・デ・リベラ政権は退陣しました。

スペイン内戦

プリモ・デ・リベラ独裁政権の終焉を迎え、国王アルフォンソ13世が帰国しますが、リベラに独裁を許した国王を国民は支持しませんでした。直後の選挙で共和制支持派が大勝利し、2度目のスペイン共和国が成立します。第二共和制です。

共和国となったスペインでは、「レアル」の称号が意味を成しません。レアル・マドリードは「レアル」の称号を外し、マドリードFCと改称しました。また「国王杯(Copa del Rey)」は「スペイン杯(Copa de España)」と名前を変えます。

カタルーニャでは、伝統的なカタルーニャ自治政府が認められ、より広範な自治を獲得しました。

共和国政府は軍隊の改革や教育改革に勤しみますが、旧体制の中で特権を持って暮らしていた地主や大資本家を蔑ろにするやり方に反発が集まります。世界恐慌の影響を受けた農民や労働者からも反乱を起こされ、行き詰まった共和国政府は辞任、1933年の総選挙で改革反対派の右派勢力が政権を獲得しました。選挙で敗れた左派勢力は危機感を覚え、イデオロギーを超えて団結して「人民戦線」を結成し、1936年の選挙では人民戦線が僅差で勝利を収めます。

こうして右派と左派の実力衝突が繰り返され、社会は騒然とし、不満が鬱積しているところに、内線の足音が聞こえてきました。保守派は軍隊の右派勢力と結び、モロッコでフランシスコ・フランコ将軍がクーデタを決行します。ここからスペイン内戦がはじまります。

フランコ将軍率いる反乱軍には、ファシズム勢力のドイツ、イタリアの協力がありました。バスク地方ゲルニカ空爆もこのとき行われています。一方、イギリスやフランスなどの自由主義国は不干渉政策をとり、共和国側はソ連を除いて孤立無援の状態でした。多くの死者を出した内戦は、1939年1月にバルセロナが陥落し、最後に残ったマドリードも3月に降伏して内戦は終結しました。カタルーニャ全域もフランコ軍に支配されることになりました。

内戦中、レアル・マドリードバルセロナも共和国陣営にありました。バルサは地中海リーグに参加してこれに優勝するなど、活動を継続していましたが、マドリーは共和国側とはいえ前線に近かったため、実質的に活動は休止していました。

マドリディスタの間にも、クラブ結成以来の伝統主義者と共和国政府に忠実な左派勢力が共存しておりました。伝統主義者には裕福な貴族や地主、資本家が多く、フランコの反乱軍に親近感を感じるものも少なからずいました。一方の共和国派には、労働者階級が多くいました。

内戦後

内戦に勝利したフランコは、総統となって独裁を開始しました。フランコは「強い、一つのスペイン」を目指していました。カタルーニャバスクなどの民族主義、民族文化は徹底的に弾圧されていきます。カタルーニャでは、カタルーニャ自治憲章が廃止され、カタルーニャ語カタルーニャの旗の使用も禁止されます。

バルサも潰されるかと思いきや、フランコ政権はスポーツを統一スペインのための民族融和の場にしようとしていました。そのためバルサのような異民族のクラブも存続させる必要があったのですが、カタルーニャ語や旗の使用禁止に伴う変更を矯正しました。エンブレムの一部にあったカタルーニャ旗の2本線に変更させられ、「Futbol Club Barcelona」という表記も純粋なスペイン語「Club de Fútbol Barcelona」に改称させられます。クラブの首脳陣もフランコの息のかかった人物で固められました。

一方のレアル・マドリードは共和国側のチームではありましたが、内戦中にほぼ活動できていなかったことから制裁を免れました。しかし内戦によってボロボロのマドリードでは、選手も少なく資金もなく、スタジアムも荒れ果てているといった状態です。執行部がポケットマネーを出したり、銀行からの借入でなんとか食い繋いでいる状態で、とても好成績を望めるような状態ではありませんでした。

エル・クラシコ

「国王杯(Copa del Rey)」も、フランコ政権下では「総統杯(Copa del Generalísimo)」と名前を変えていました。

1943年の総統杯準決勝、第一戦はバルセロナのホームであるラス・コルツでおこなわれ、バルサが3-0で勝利しました。このときマドリーの選手がラフプレーを連発し、スタジアムでは猛烈なブーイングを浴びせられました。マドリーの選手にブーイングを浴びせることはフランコ政権下ではかなり勇気の必要な行為でした。「スペインを代表するクラブの選手たちにブーイングを浴びせるとは何事だ!」といった内容で新聞でも批判され、バルサ・バッシングのキャンペーンが始まります。

そして第二戦、11-1 という驚愕のスコアでレアル・マドリードが勝利します。通常ならありえないスコアです。この試合には政府による審判への圧力があったという噂が残っており、疑惑の笛、カード、ゴール取り消しなどが多くありました。バルサの選手はやる気を無くし、後半はピッチに立たないことを決めると、マドリードの警察署長がやってきて「ピッチに出ないとお前たちは刑務所行きだぞ」と脅したという証言も残っています。観客も激しい罵倒をおこなうなど、ひどい有様でした。

スペイン・サッカー連盟はこの試合ののち、なぜか両成敗の方針を取り、両クラブに罰金を科しました。この試合によって、レアル・マドリードは体制側のクラブと位置付けられるようになり、バルセロナカタルーニャ民族主義の代表たるチームという構図が出来上がります。

その後

ここからライバル関係が出来上がった両クラブですが、その後もあらゆる事件が両クラブ間で起こります。ディ・ステファノ争奪戦や「ガラス瓶のファイナル」「グルセタ事件」などたくさんありますが、ここではライバル関係の成立のみに焦点を当て、どのようにそれが盛り上がっていったのかということはまた別の機会に紹介できればと思うので、名前の紹介のみにとどめたいと思います。

その後の両クラブの話をします。

レアル・マドリードはというと、体制側のクラブとしてスペインを代表する強いクラブとなることを義務付けられました。そこで会長に就任したサンティアゴ・ベルナベウが辣腕を振るい、スペインどころか欧州で大成功を収めるクラブに成長していきました。

バルセロナは、名選手の獲得やカンプ・ノウの建設などで息を意を強め、五冠を達成するなど第二の黄金時代が訪れます。マドリーとのディ・ステファノ争奪戦に敗れ、黄金時代が終焉し、その間はマドリーの黄金時代を眺めることになりますが、やがてクライフの加入でフットボール界に革命をもたらしたチームとして名を上げることになります。

1975年にフランコが死去し独裁体制は終焉し、スペインは民主化への道を歩みます。マドリーはフランコの呪縛から解放され、体制側のチームである必要がなくなりました。両クラブは健全なライバル関係を歩んでいくことが可能となりました。

しかし、歴史は完全に拭い去ることなどできません。カタルーニャへの弾圧はなくなりましたが、現在もまだ自治問題が完全には解決されていません。ルイス・フィーゴ禁断の移籍の際の豚の頭事件など、何かをきっかけに過去の因縁が噴き上がることもあります。現に2019年には、独立問題に端を発し、エル・クラシコが延期されるなどという事態にも発展しました。

スペイン国外からクラシコを楽しむ一人のサッカーファンとして、両クラブの暗い歴史を知っておくことで、クラシコをまた別の視点で見られるようになるのではないかと思います。