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独立 - Historia del Clássico 1

FCバルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウでは、前後半の17分14秒になると独立コールが叫ばれます。なぜその時間に叫ばれているのか、そこに至るまでの歴史について書きたいと思います。

本当はエル・クラシコの歴史について書くつもりでありましたが、カタルーニャというものについて話さないことにはどうしようもないと悟りました。そのためこの稿ではカタルーニャの歴史の話に始終することといたします。

イベリア半島

ヨーロッパの南西、ピレネー山脈より南側に広がる地域はイベリア半島と呼ばれています。ここにはスペインとポルトガルのほか、英領ジブラルタルやフランスの一部、学術的にはアンドラ公国も含まれます。

古代のイベリア半島は、カルタゴとのポエニ戦争に勝利したローマ帝国が支配していました。ローマ帝国ゲルマン民族の侵入により滅亡してのち、この地はゲルマン民族のひとつ、西ゴート族支配下に入りました。西ゴート王国と呼ばれています。

8世紀、西ゴート王国が支配していたこのイベリア半島に、北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイスラム勢力が侵入します。西ゴート王国はそれに屈し、イスラム勢力はピレネー山脈を超えてヨーロッパに進出しようとしましたが、現在のフランスの位置にあったフランク王国がそれを食い止めました。この食い止めた戦いをトゥール・ポワティエ間の戦いといいます。ここからイベリア半島では、イスラム王朝であるウマイヤ朝による支配が始まります。アル・アンダルスと呼ばれるこのウマイヤ朝支配下におけるイベリア半島では、イスラム教の文化が今でも息づいています。

フランク王国はその後、イスラム勢力に対する防波堤としてヒスパニア辺境伯領を設置します。これがのちに「カタルーニャ」と呼ばれるようになります。

それまでイベリア半島にいたキリシタン勢力は、北部の海岸沿いおよび北東部ピレネー山脈山麓まで追いやられてしまいました。北部に追いやられたキリシタン勢力は、やがて国土を回復しようと決起します。この約800年にも及ぶ国土回復運動は「レコンキスタ」(再制服)と呼ばれています。

このレコンキスタの過程で、キリシタン勢力から中世の諸王国が誕生します。レオン王国カスティーリャ王国ナバラ王国アラゴン王国、そしてカタルーニャ公国などです。これらの国々は統廃合を繰り返し、レコンキスタ完了時にイベリア半島に残っていたのは、カスティーリャ王国ナバラ王国アラゴンカタルーニャ連合王国ポルトガル王国でした。

カタルーニャの栄光

フランク王国が設置したヒスパニア辺境伯領から、カタルーニャは独立の歩みを進めていきます。バルセロナ伯ギフレー1世は、フランク王の意志とは無関係に後継者を決定し、その息子のボレイ2 世の時代にフランク王国からの独立を果たします。このバルセロナ伯国(カタルーニャ公国)がのちにアラゴン王国と合併し、アラゴンカタルーニャ連合王国となりました。

時は流れて「征服王」ジャウマ1世(ハイメ1世)の時代に、アラゴンカタルーニャ連合王国は栄光の時代を迎えます。

ジャウマ1世はマジョルカ島イスラム教徒を退けて地中海への道を確保し、続いて南方のバレンシア地方の征服を行い、他の地域に先駆けて、ひとまずのレコンキスタを完了しました。アラゴンカタルーニャ連合王国の領土のうち、カタルーニャが再征服したこの辺りの地域はカタルーニャ語圏となりました。FCバルセロナだけでなく、現在のバレンシア州バレアレス諸島州に本拠地を置く、バレンシアCFビジャレアルCFジローナFCなどは、エンブレムにカタルーニャ国旗(黄色地に赤4本線)があしらわれています。

地中海への道を確保したアラゴンカタルーニャ連合王国は、バルセロナを拠点に地中海方面に領土を拡大します。フランスからシチリア島を奪い、ジェノアと争ってサルデーニャ島を領有し、「アルモガバルス」というカタルーニャの傭兵団によってギリシャアテネ公国までも支配領域に含まれることになりました。

スペイン統一、カタルーニャの衰退

こうして一大地中海帝国に発展していったアラゴンカタルーニャ連合王国ですが、バルセロナ伯家が断絶したことにより停滞、そして凋落の道を辿ることになります。新たにカスティーリャからファラン1世(フェルナンド1世)を迎え、トラスタマラ朝の時代に突入し、その子アルフォンス5世の時代に王とカタルーニャ議会が対立、内戦に発展します。その弟のジュアン2世(フアン2世)が即位した頃にはすでに大国の面影はありませんでした。

ジュアン2世の息子のファラン2世(フェルナンド2世)は、カスティーリャレオン王国の女王イサベルと結婚し、アラゴン王国カスティーリャレオン王国の同君連合が形成されました。統一スペイン王国の誕生です。カトリック両王と呼ばれたこの二人によって、イベリア半島最後のイスラム勢力であるグラナダ王国は陥落、レコンキスタが完了しました。

同年、コロンブスが新大陸に到達し、スペインの大航海時代が幕を開けます。しかし、中南米征服はカスティーリャの主導で行われた事業であり、またカタルーニャはそこに関与するだけの国力を持っていませんでした。そのためカタルーニャは新大陸経営の利益を享受することはできなかったのです。

イサベルとファラン2世の孫、カルロス1世が後継者となり、スペイン・ハプスブルク朝の統治時代が始まります。統一スペイン王国の王も統一され、カタルーニャスペイン王国内の一地方に成り下がりました。しかも時代はカタルーニャが栄光を謳歌した地中海から、新大陸へのルートである大西洋へと移り変りました。地中海の覇者カタルーニャは、やがて衰退していきました。

スペインの没落と継承戦争

スペイン王国の黄金時代は長くは続かず、無敵艦隊の敗北をきっかけに凋落していくことになりました。国力を落としたスペインは、カトリック国として三十年戦争にも介入します。

そんななか起こったのが、収穫人戦争という反乱でした。

三十年戦争でフランスと戦っていたスペイン王国は、軍をカタルーニャに駐留させていました。この軍というのはカスティーリャ軍と呼んでも差し支えないと思いますが、この軍がカタルーニャでなぜか乱暴狼藉をはたらきます。加えてスペインの宰相オリバーレス伯爵は、対仏戦争の戦費調達のため、カタルーニャの資源を搾取し続けていました。これに耐えかねたカタルーニャ農民は、収穫に用いる鎌を武器に掲げて反乱を起こしました。これを収穫人戦争といいます。この戦争で生まれた歌詞をもとにした「収穫人たち」という歌が、現在のカタルーニャの国歌として制定されています。

収穫人戦争には、スペインの敵であるフランスが介入します。フランスは農民軍を支援し、反乱軍は軍事的には勝利を挙げます。ところがカタルーニャ農民の支援者であったはずのフランスは、ピレネー条約により結果的にピレネー以北のカタルーニャ地方を領有することになり、カタルーニャとしては不信感の募る結末となりました。

スペイン継承戦争

やがて17世紀後半、スペイン王カルロス2世は後継を残さぬまま死去し、それまでのスペイン・ハプスブルク家は断絶します。後継者に指名されたのは、フランスの太陽王ルイ14世の孫であり、カルロス2世の異母姉マリー・テレーズの孫でもあるフィリップ(フェリペ5世)でした。しかしこれにまったをかけたのが、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世です。強大なフランスがさらに力をつけるのを恐れ、息子のカールを後継者として擁立します。この動きにフランスの膨張を抑えたいイギリスやオランダも加わり、スペイン継承戦争が始まります。この戦争でフランス・ブルボン家を支持したのはフランスのほか、スペインの政治の中心であるカスティーリャ、およびナバラバスクでした。オーストリアハプスブルク家を支持したのはオーストリアハプスブルク帝国のほか、神聖ローマ帝国、イギリス、オランダ、スペイン国内ではカタルーニャアラゴンバレンシアなどでした。

戦争が展開されていくなか、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世が急死し、跡を継いだヨーゼフ1世も崩御したため、カールは神聖ローマ帝国の皇帝に即位しました。この状態でカールがスペイン王位を継承すると、ハプスブルク家の大帝国が実現することになるため、ここにきてイギリスやオランダが継承戦争から手を引いてしまいます。

残されたカタルーニャは孤立無援となりました。ブルボン家を推す勢力との戦いを単独で行うことになってしまい、やがて1714年9月11日にバルセロナは陥落。ブルボン家スペイン王となりました。

17分14秒

継承戦争に勝利したブルボン朝スペイン政府は、カタルーニャに対する厳しい制裁を行いました。州政府や市議会は廃止され、カタルーニャの独自法や特権も廃止して自治権を取り上げていきました。またカタルーニャ語の禁止、大学の廃止など、徹底した制裁を行っていきます。

継承戦争でバルセロナが陥落したのは1714年9月11日でした。この出来事から、9月11日はカタルーニャ国民の日と定められています。また1714年という数字を忘れないという想いから、バルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウでゲームが行われるとき、17分14秒に「In, Inde, Independència!」(独立!)というチャントが叫ばれています。