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zerosant blog

純文学を読みはじめた話

最近、純文学を読みはじめました。

これまでは読書するとなると新書や専門書が一番多く、次に歴史小説、次にそれ以外の小説、ごくたまに他人からおすすめされたビジネス書や自己啓発本、という順番で本を選んでいました。

それぞれのジャンルでどういう本好んでいるかというと、新書や専門書だと自分の知らない専門知識がまとまっていておもしろそうなやつならなんでも、小説では単純に作品としておもしろいものや文章が美しいもの。反面、生き方・考え方や仕事術を学ぶためのビジネス書や自己啓発本は、読書で学んだことを生活や仕事に活かせないやつはダメだと言われているような気がして、あまり気乗りしません。人にお薦めされたやつは読んどくか〜くらいの感覚です。

そんななか、このごろ純文学に手を出しています。

なぜ純文学を読みはじめたのかというと、それは近頃体験しているコミュニケーション全般に理由があります。

私の仕事上のコミュニケーション手段は、主にテキストによります。最近では、テキストによるコミュニケーションを円滑に進めるための工夫が自然と研究されていて、各々が確実に意思を伝達するための努力が推奨されつつあります。

とくにエンジニア界隈では、もとより同期的なコミュニケーションよりもテキストによる非同期なそれを得意とする人が多いようで、その点において、職務上のコミュニケーションに不自由することが少ないと感じています。

ところが、ここからが問題。最近は、上質なテキストコミュニケーションに慣れてきたせいなのか、「行間を読む」といった、少ない文字情報から意図を汲み取る力が衰えているように思います。衰えているのか、元から備わっていないのかは怪しいのですが、それにしても行間が読めない。

日常生活におけるLINEなど、普段からテキストコミュニケーションをこなしていない人とのチャットにおいて、相手の意図がさっぱりわからず往生することが多くなりました。そういった相手に対して円滑なテキストコミュニケーションのメソッドを押し付けるのは、流石におこがましく感じられて少し気が引けます。

つまりは自分が行間を読めないのが問題なのだと。行間を読む努力をしなくても円滑に意思疎通できるようにしよう、というムーブメント側にがんばってもらうのは、それはそれで全力で応援したいと思っています。しかし、こちらはこちらで、多少は行間を読めるようになってもいいのではないか。そう考えて、純文学を手にとるようになりました。

ちなみに、純文学と大衆文学の違いはどれだけ調べてもわかりませんでした。一応自分のなかで結論づけたのは、純文学の方が説明が少なそうだ、ということだけ。大衆文学は一つの主題向けてのみ書かれており、読後にそれがわかりやすいものが多いような気がします。それに対して純文学は文章だけを読者に掲示して、感想は人によって大きく異なるものが多いような気がします。気がするだけです。第一どれが純文学でどれが大衆文学かの区別もついておりません。

なんの結び文句もありませんが、最後に最近読み始めた純文学作品を貼っておきます。こういった動機で読みはじめたわけですが、読んでみると現代的な悩みとリンクするところもあったりして、なかなかおもしろかったりします。

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